上方漫才を代表する横山やすし・西川きよしのライバルとして名を挙げ、“芸人を笑わせる芸人”と呼ばれた、漫才コンビの「若井ぼん・はやと」。軽快でテンポのある掛け合いや、大上段から切り込むようなボケに多彩で巧みなツッコミで返す、技巧派漫才で人気を博した。
すでに1985年に解散しており、ツッコミの若井はやとさんは2008年に故人となったが、今もなお2人の漫才は語り継がれ、芸人たちからのリスペクトの声も絶えない希少な存在だ。そこで、昨年で「若井ぼん・はやと」結成60周年を迎えたことを記念し、若井はやとさんの直弟子である若井りきさんにインタビューを敢行。若井はやとさんとの出会いから、芸人としての魅力について聞いた。
「はやと軍団」のメンバーとして飲み歩いた日々
「ザ・バッテリー」というコンビを組み、お笑いオーディション番組『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系列)での5週勝ち抜きをはじめ、若手漫才師として活躍の場を広げていた若井りきさん。当時所属していた松竹芸能が運営する劇場で出会ったのが、若井はやとさんだったという。
「もちろん素人の頃から知ってましたし、2人ともおもろい漫才師やなと。はやと師匠はツッコミに定評があって、声の強弱や言い方を変えたりいろんなテクニックを持ってはったんで、“ツッコミといえば若井はやと”という感じでしたね。劇場で見たときは感動しましたよ」
そんな2人が急激に仲良くなったのは、りきさんが通称“はやと軍団”と呼ばれるグループに参加するようになったことがきっかけだった。
「当時、松竹芸能にもベテランの芸人さんはたくさんいましたが、若手芸人を飲みに誘う人はあんまりいなかったんですよ。あえて言うと、レツゴー三匹のじゅん師匠ぐらいかな。そのなかで、はやと師匠は毎日のように若手を引き連れて飲んでましたわ。当時お金のない若手はタダで食べたり呑んだりできるわけですから、ついて行きますよね。多少、芸事に関する小言を我慢するとしてもね(笑)」
軍団のメンバーとしてはやとさんと親交を深めるなかで、「その豪快すぎる生き様にどんどん惹かれていった」と話すりきさん。
「もうとにかく、“ザ・芸人”という雰囲気でね。宵越しの金を持たない見本のような人で、お金はあればあるだけ使う。当然、借金もするんですけど(笑)。ある時期なんか、仲が良い芸人さんとお互いの実印を持ち歩いて勝手に保証人としてハンコをついたとか、もうめちゃくちゃ。それに、舞台でもおもしろいけど楽屋話がめちゃくちゃおもしろかった。こうしたインタビューではお話できないような内容ばかりですが…。1つ言うと、ゴルフで1メートルのパットを打つときに、入るか入らんかで10万円賭けた話とか。そういう話を聞くために、月亭可朝師匠とか芸人がぎょうさん来てたぐらいでした」
当時、師匠を持たない“ノーブランド漫才”の先駆けであったりきさんのコンビ。しかし、舞台でも私生活でも魅力的なはやとさんに弟子入りしようと思い立ったそうだ。
夫婦喧嘩をして健康ランドで過ごす若井はやと
当時のはやとさんは『弟子はとらん!』と断言していたが、あることがきっかけで、同じ松竹芸能所属のタレントだった山田雅人の弟子入りを認めることに。それに続くように、はやとさんを慕っていた芸人たちが弟子になっていった。
「僕らは当時、今のケーエープロダクションに移籍した後ぐらいで、心機一転じゃないけど、『師匠にするならこの人しかいない』っていう思いがありましたね。それで親と一緒に師匠のもとを訪れて、正式に弟子にしていただきました。そのタイミングでコンビ名も『ザ・バッテリー』から『若井りき・ゆうき』に改名しました」
芸だけではなく人としても尊敬するはやとさんの弟子となったりきさんは、うれしい反面、豪快な生き様ゆえに大変なことも多かったと当時を振り返る。
「例えば、はやとさんは奥さんとケンカすると平気で1週間ぐらい健康ランドに泊まりはるんですよ。当然、僕らも声をかけられるんでそっちに集まると。そのうち、お金がなくなれば『家に帰るからついてきてくれ』と言うのでお供するんですが…。帰った途端に奥さんとケンカをし始めて、「じゃかましい!ワシ、出ていく!」って。今帰ってきたとこやのに(笑)。そんなこともありましたね」
さらにりきさんは「師匠の気取らない人間くさい部分も魅力の1つ」と話し、ある思い出を語ってくれた。
「ある時期、僕がお金のことで切羽詰まって師匠に相談したんですよ。当時すでにベテランでしたから、ドンとお金でも貸してくれるんかなと思ったら、『ワシを見たらわかるやろ。金なんか持ってないがな』って(笑)。それでも最後に、『誠意を持って話せば、誰も命までは取らん』って。ちゃんと生きるうえでの指針も示してくださいました」
再確認した師匠の偉大さを漫才を通して伝え続ける
芸人に愛される芸人だった若井はやとさんは、2008年12月8日に64歳でこの世を去った。この時、りきさんをはじめ芸人たちは、突然の訃報を信じることができなかったと話す。
「急でしたからね。何より、師匠は不死身なところもあって。ある病気を患った時なんかは『手術をすると会話ができなくなる』と。でも師匠は芸人のプライドとして、手術しない治療法を選んだんです。そら心配しましたけど、完治してましたからね(笑)。薬で髪の毛が薄くなるって言われてたのに、逆に散髪に行ってたぐらいです」
そして、はやとさんが亡くなって10年以上が経った今も、あの当時に教わった数々の言葉を今も強烈に覚えているとりきさんは言う。
「『ツッコミは強弱を付けろ』とか、『相手がしゃべった言葉と同じ言葉で返すのは時間の無駄や』とか、具体的なアドバイスも心に残ってますね。あと、『押して引いて押して引いて、一発かまして、最後は腕や』っていうのもね。お客さんの状況を見ながら、押して引いてを繰り返して、最後は腕で笑いをとれと。まぁ、“一発かます”っていうのが今も何かはわからへんのですけど」
りきさんはそうした思い出を振り返りながら、最後に師匠への思いについても語ってくれた。
「晩年、師匠はたった1人で舞台に立つ漫談をやっていたんですが、僕は漫才師ですから、1人で舞台に出るといまだに緊張するんですよ。でも、師匠はゆっくりとした間でちゃんと笑いを取ってた。このインタビューでそんなことを思い出しながら、改めて師匠のすごさを認識できました。2月に関西演芸協会まつりというイベントで漫才をするんですが、そこで師匠から教わった芸をしっかり披露したいと思います。その漫才を師匠に見てもらって、また“はやと軍団”で飲みにいけたらいいなと。ただ、それだけですわ」
楽しいエピソードを交えながら、はやとさんとの思い出を懐かしそうに語ってくれた若井りきさん。これほどまでに豪快で、自由に生きた芸人だったからこそ、若井はやとさんは今もなお多くの人々に愛されているのだろう。
取材・文=橋本未来