九州人のソウルフード・マルタイ『棒ラーメン』はなぜ愛される?ドラマチックすぎる64年の歴史に迫る

2023年1月31日

福岡県に本社を構えるマルタイ。同社では数多くの即席麺を製造・販売しているが、その代表的商品で1959年の誕生以来64年間愛され続けているのが、『マルタイの棒ラーメン』だ。正式名称は『マルタイラーメン』だが、棒のようにまっすぐな麺にちなみ『棒ラーメン』の愛称で親しまれている。

今回は、九州エリアにおける即席麺の代表格でもある『マルタイラーメン』のルーツや味わいの秘密に迫る。また、記事後半ではおすすめのアレンジレシピもご紹介!

九州人のソウルフード「マルタイの棒ラーメン」


『棒ラーメン』開発秘話。最初は「玉うどん」からスタート!

創業時、「泰明堂」という屋号だったマルタイは、終戦から2年後となる1947年に福岡県福岡市高砂町で創業した。当時この界隈は1945年6月に受けた福岡大空襲の被害が大きく、終戦後も食糧物資が乏しい状況だったという。こういった状況を前に創業者の藤田泰一郎氏は、「地元の多くの人たちの空腹をなんとかして助けてあげたい」と考え、製粉・製麺業に乗り出した。

創業当初のマルタイは生麺「玉うどん」を販売し、多くの支持を得たが、どうしても保存期間が短く販売数に限りが出てしまう。そこで、「もっと日持ちのする麺を作らなければいけない」と一念発起。そのとき着目したのが、中華麺だった。この中華麺は、玉うどんに比べれば保存期間が長く販売しやすいところに大きなメリットを感じたという。

藤田氏は、まず長崎県の製麺所に出向き、そこでちゃんぽんや皿うどんの製法を学んだそうだ。その後、試行錯誤の末にようやく中華麺の製品化に至った。

ちなみに、今でこそ福岡は「ラーメンの街」として全国にその名を轟かせているが、当時はうどんのほうが支持が厚く、中華麺の認知度は低かったという。そのため、当時の従業員は九州一帯を走り回り、熱心な営業活動を行った。ときには飛び込みで小売店の店頭に立ち、生活者に向けて実演販売を行うこともあったんだとか。こういった地道な活動を経て、マルタイの中華麺を取り扱う小売店が少しずつ増え、同時に消費者にもじわじわと浸透していった。

現在の『屋台とんこつ味 棒ラーメン』の調理例


こうして生の中華麺の販売網を確立させたマルタイだったが、その挑戦はこれだけにとどまらず、次に即席麺の製造に着手する。即席麺の元祖としては、日清食品の『チキンラーメン』が有名だが、実は『チキンラーメン』発売の同時期にマルタイでも即席麺の研究を行っていたという。

前述の通り、マルタイではすでに玉うどんや中華麺の製造の経験があったが、即席麺ではノンフライ・ノンスチームを意識し、“油で揚げていない生麺のおいしさ”を追求。『チキンラーメン』以降、多数の他社が開発した即席麺はちぢれ麺だったが、これらと一線を画すようにストレートの麺を開発した。

そして『チキンラーメン』に遅れをとること約1年。1959年に完成したのが『マルタイラーメン』だ。

順調に売上を伸ばす『棒ラーメン』に強力なライバルが登場

『マルタイラーメン』を発売するやいなや爆発的な大ヒットとなり、一時、生産が追い付かなくなる事態にもなったそうだ。殺到するオーダーを受けて、『マルタイラーメン』発売の翌年1960年には工場を増設。また、ラジオCMなども打ち出し、「煮込み3分、味一流!食べなきゃ損だよマルタイラーメン!」のコピーで、その特徴をさらに周知させたという。

『マルタイラーメン』の発売前後、他社からも続々と即席麺が販売され、即席麺が大ブームとなった時代でもあった。『マルタイラーメン』もこの追い風に乗り、順調に売上を伸ばしていった。

1961年には「第1回全国インスタントラーメンコンクール」で金賞を受賞したほか、同年には特殊栄養食品として厚生大臣許可の商品に。続く1964年にはスープの粉末化にも成功し、さらに地元・福岡の味わいを打ち出すべく、1969年には業界初となるとんこつ味スープの即席麺の第1号、『屋台ラーメン』などの発売に至った。

ノンフライ・ノンスチームで乾燥させた棒状の麺だ


さらなる飛躍を目指すマルタイだったが、1970年代に入ると、苦難の時代を迎えることに。1971年、日清食品がお湯を注ぐだけで食べられる『カップヌードル』を発売し、「第二のラーメン革命」と言われるほどのムーブメントを巻き起こしたからだ。

当初は『カップヌードル』という革命的商品を前に静観に徹していたマルタイだが、やがてカップラーメンのニーズは無視することができないものとなった。

そこで、マルタイでも1975年に『マルタイヌードル』、1976年に『長崎ちゃんぽん』といったカップ麺を発売。しかし『カップヌードル』の登場から4年の遅れとなり、群雄割拠の食品業界では勝負にならず、他社に太刀打ちできない結果に。

また、目まぐるしく変わった時世の影響もあり、結果的にマルタイは1981年に大きな未処理損失を計上することになった。

厳しい状況でもファンからのラブコールは止まらなかった

1970年代以降、市場ではカップラーメンの支持が高まり、『マルタイラーメン』はやや影を潜める存在に。後にマルタイは福岡銀行出身の新社長を迎え、経営の立て直しをはかった。生産ラインの見直しで、徹底的に経費を削減。一方で、品質向上、ラインの合理化、生産能力向上に関わる大幅な設備投資も行い、1986年には無借金経営に持ち直した。さらに棒状麺の最新鋭製麺ラインを完成させるなど、設備投資も行う。

そういった改革の結果、1970年代から続いていた苦難の時代は終焉を迎え、売上を持ち直し、マルタイは見事V字回復を実現。ちなみに、厳しい時期であっても九州地方では「この麺でなければダメなんだ」「マルタイでなければいけない」というファンからの熱い支持を得続けており、『マルタイラーメン』はマルタイのロングセラー商品として販売され続けていたという。

2000年代に入ると、マルタイはロングセラー商品『マルタイラーメン』の復権と合わせて「豚骨ラーメン発祥の九州市場を一層強固にする」と志し、『マルタイラーメン』に「高級路線」と「九州のご当地シリーズ」の2つのラインを追加した。

「高級路線」の『稗田の博多豚骨拉麺』は、液体と粉末のWスープに加え調味油も付け、より本格的な博多ラーメンの味を実現。発売当時、通常の『マルタイラーメン』の約3倍の2食入り400円という値付けだったが、大手デパートや高級スーパーなどでも取り扱われることとなり、結果的に新たな販路の開拓と、それまで『マルタイラーメン』に馴染みが薄かった消費者へのアピールにもなった。

「高級路線」として展開した『稗田の博多豚骨拉麺』


2007年には「九州のご当地シリーズ」として『博多とんこつラーメン』『熊本黒マー油とんこつラーメン』『長崎あごだし入り醤油ラーメン』を次々と発売。当時1袋2食入り200円で、通常の『マルタイラーメン』と「高級路線」との中間的な商品だった。

これら「高級路線」と「九州のご当地シリーズ」の取り組みは、新商品個々の売上はもちろんのこと、結果的にオリジナルの『マルタイラーメン』自体のリバイバルヒットにもつながっていった。

「九州のご当地シリーズ」として展開した『熊本黒マー油とんこつラーメン』


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