市長で社長、“人が生きるのに優しいまち”を導く韮崎市長の水のように“謙虚で柔軟”なリーダー論

2023年7月20日

山梨県の北西部に位置し、雄大な南アルプス、八ヶ岳、茅ヶ岳に囲まれ、富士山を真正面に望む、自然豊かなパノラマが楽しめる韮崎(にらさき)市。「すべての人が輝き 幸せを創造するふるさと にらさき」という将来都市像を目指すまちは、一人ひとりの生き方が尊重され、心の豊かさと幸せが実感できる、人が暮らしやすい都市だ。

今回、話を伺う市長の内藤久夫さんは、「強くて美しいまち」「元気で豊かなまち」「夢と思いやりのあるまち」という3つの柱を実現すべく、市民参加型の“チーム韮崎”を提唱し、市政と市民が一丸となったまちづくりを進めている。家業である会社の社長も兼業する内藤さんに、韮崎市の魅力や市長として自身が目指すリーダー像、未来の韮崎市などについて語ってもらった。

韮崎市長の内藤久夫さん【撮影=阿部昌也】


原動力となった自然いっぱいの韮崎市の魅力

ーー内藤さんにとって、韮崎市とはどのようなまちでしょうか?
【内藤久夫】豊かな自然に恵まれたまちで、阪急電鉄や宝塚歌劇団を創設した小林一三翁からノーベル賞を受賞された大村智博士まで、多くの偉人を輩出しています。このまちが、そうした偉人たちをごく自然に輩出できた背景はなんだろう?と考えると、やはりこの豊かな自然環境と、富士山を中心とした素晴らしい眺望がある場所だからなのだと思います。大村博士も「世界中いろいろなところを巡ってきましたが、この韮崎市からの眺望が一番素晴らしい」と、よくおっしゃっています。私は世界中を巡ってはいませんが、博士の言葉どおり、よい場所だなと思います。それが人の豊かさにつながっている、そういうまちかなと思います。実は韮崎市では「市内のどこから見た富士山が綺麗か?」というテーマで、市民のみなさんから写真を募集して韮崎市版の富嶽三十六景という冊子を作りました。韮崎市役所から見た富士山もそのひとつに選定されているのです。

【写真】市役所から望む富士山も韮崎市版の富嶽三十六景に選定されている【提供=内藤市長】


ーー確かに富士山は美しいですよね。雄大な景色を眺めていると、志も高くなりそうです。
【内藤久夫】そうですね。毎朝、起きて窓を開けると見えますから。それが当たり前の風景なんですが、歳を取れば取るほど神々しく見えます。「今日も頑張らなきゃ」みたいな気持ちになります。

ーー高校を卒業されてから、一時、地元を離れていましたよね。その間、韮崎市に対する思いや心境に変化はありましたか?
【内藤久夫】8年間、離れていました。大学では、山岳の同好会に入ったんです。その理由は、東京に出てみると「関東平野のど真ん中に来てしまうと山がないよな…」と感じて、やっぱり山歩きしたいなと思ったんです。振り返ってみると、韮崎市に生まれると自然とそういうものに惹かれるんですね(笑)。

ーーおのずと惹かれていった?
【内藤久夫】そういうのがあるみたいですね。歩くことは嫌いじゃなかったですけど、韮崎市にいるころはあまり山なんか登らなかったんですよね。離れてみてそう感じたので、不思議ですよね。

ーー8年間離れていて、なぜ韮崎市に戻ろうと考えたのですか?
【内藤久夫】戻ってきた理由は、自主的な意思ではなく親の事情でした。実は、私の父親も以前、韮崎市長を務めていまして、父親が公職に就いた際に「帰ってきて会社を継いでくれ」という感じだったので、「そうか」と腹をくくりました。まあ仕方ないか…みたいな感じで、意外と安易な気持ちでしたね。でも、長男なので「いずれは帰らなきゃならないかな」とは思っていました。

内藤さんの父親は、村議会議員、市議会議員や県議会議員を経て、4期にわたって韮崎市長として活躍されていた【撮影=阿部昌也】


ーーそれまでの仕事に未練はなかったのですか?
【内藤久夫】半分それもありました。実は、ちょうど勤めていた会社で、工場勤務から志望していた海外事業部への転勤が決まったタイミングだったんです。希望は叶ったのですが、この異動のタイミングで退職するしかないと思って。当時、親が市長をやることが、自分にどう影響を及ぼすのか想像できましたし、父親も「言わんとしていることもわかるよな?」みたいな感じでしたから。

ーー当時、海外で理想の勤務地はありましたか?
【内藤久夫】事業所がアメリカにもヨーロッパにもあったので、「どっちでもいいかな」とは思っていました。学生時代に留学していた経験もあったので、「いずれ、海外での仕事に携わってみたいな」という気持ちがあったんです。ただ、今こうやって、外国語ではなく、外国語のような方言の甲州弁を喋るとは思っていませんでした(笑)。

ーー今の韮崎市では、あまり甲州弁を感じられないですよね?
【内藤久夫】そうですよね。でも、私はネイティブスピーカーなんですよ。標準語と甲州弁のバイリンガル(笑)。

ーー使い分けされているんですね(笑)。
【内藤久夫】はい。地元の言葉で市民の方と喋ったりすると、やっぱり親しみを感じますよね。ある程度お年を召された方と話すと、自然とそっちに惹かれたりします。でも、少し残念なことに、若い方はあまり甲州弁は喋らないですね。私の子どもも3人とも、ほとんど甲州弁は喋りません。でも、こういった“生まれ育った地”の言葉は大事だと思います。

ーー地元の言葉は地域のバックボーンですし、話すと距離感も近くなりますよね。
【内藤久夫】私は決して恥ずかしいとも思わないし、好きですね、甲州弁が。

君子豹変!家族もびっくりの突然の出馬。市長と社長業を両立し、市民から感謝されることをやりがいに

ーー2014年に市長選で初当選されましたが、当時の出馬への思いを教えていただけますか?
【内藤久夫】私の人生を振り返ると、物事を自分の意思で決められないことが多くて。故郷に戻ってきたのも親の事情でしたし、実は選挙に出馬するまでにも、ひと波乱あったんですよ。当時の私は正直、もう政治や選挙は嫌だと思っていました。今でも覚えていますが、私が生まれるずっと前から父親が政治家だったので(内藤さんの父親は、村議会議員、市議会議員や県議会議員としても活躍)、子どものころは「4年ごとに、人にたくさん頭を下げているな」と思っていました。それに、普段からあまり家族は出すぎた真似をしちゃいけない、そんな雰囲気のなかで育ったんです。ですから、父親が公職を辞めたときに、そういう世界から解き放たれたので「これはよかった。いよいよ私の時代が来たな」と思って、のびのびとやっていたんです。ところがある日、選挙に出馬することになってしまって…。なってしまったというのは、前市長さんが辞めると公言したときに「次は誰がやるかな?」と思っていたんです。そうしたら、何十人もの地元の人たちが私の自宅に押しかけてきて、「とにかく選挙に出てくれ」と言うんですね。びっくりしました。(笑)。

自ら市長になるとは夢にも思っていなかったという内藤さん【撮影=阿部昌也】


【内藤久夫】私は、生まれてから50年ずっと選挙が身近にありましたから、「もう絶対に嫌ですって、前から言ってますよね」と断ったんです。すると「それは、そうかもしれないけど、それはあんたの言い分で、我々、住人としたらそんなわけにいかない」と言われてしまい…。そんなわけで、最終的に根負けして引き受けたというか、背中をぐいっと押されたというわけです。選挙の直前まで「これから遊べるぞ!自由になったぞ!」みたいな感覚でいたので、正直、市民のみなさんには申し訳ない気持ちでしたけどね。

【内藤久夫】ただ、やると決断した以上は、本当にしっかりやらなければなりません。父親の姿を見ていたので、どれだけ大変なことかもある程度わかっていたつもりです。歴代の市長さんが築いたものをしっかり守り、さらに積み上げていかなければならないですし、常に父親の影もあったので「ギアチェンジをしなきゃ」と、当選が決まった瞬間に決意しました。もちろん、今でもそう思っています。

ーーそれだけ拒否していた選挙。内藤さんの心を動かすきっかけとなるような周囲の方の言葉はありましたか?
【内藤久夫】家族から「地域の人があれだけ言うんだから、仕方ないよね」と言われたことですね。その一言がなければ、私はやっぱり出馬できなかったと思います。選挙をやると家族がどれだけ大変かっていうことは、自分が身をもって経験していたので。当時は「今度は自分が家族に大変な思いをさせるのか」という気持ちでした。でも、最終的には家族が背中を押してくれたと思っています。

ーー快く送り出してもらった、と。
【内藤久夫】ただ恨みも買いました…。私が出馬表明をしたのが9月、選挙はその2カ月後の11月でした。実は、その9月に妻と娘とヨーロッパ旅行に行く予定だったんです。本当にドンピシャでタイミングが悪かったんですよね。いまだに「まだ叶えてもらってないよ。ちゃんと約束を果たしてよね」って、言われて恨まれているんです。この話からも、いかに私が選挙に出るつもりがなかったかがわかりますよね(笑)。

ーーよくわかりました(笑)。楽しみにしていた旅行を取りやめてまで、ご家族は背中を押してくださったんですね。いいご家族ですね。
【内藤久夫】そうですね。ただ、会社の社長と市長の両方をやっているので、やっぱり心配もされています。「どこかで突然倒れちゃうんじゃないか」って。でもそれも、今年の4月から息子が帰ってきてくれて、私が以前そうだったように会社に入ってくれたので、少し楽になってくるかなと思います。さすがに70歳近くになると、朝から晩までは体力的にけっこうきついので。もっとも、体力的なきつさよりも私が心配なのは、それぞれが中途半端になること。それが一番怖いと考えています。

ーー民間企業の社長と市長、この同時進行は大変ですよね。同時に務めるうえで、いい点と苦労する点を教えてください。
【内藤久夫】文字どおり“二足のわらじ”でして、建設会社のような市の指名業者の社長だと市長にはなれませんが、私どもの産業は市の仕事と直接関係ないので問題ないんです。実は父親も社長を兼業していました。だから、自分でも「何とかなるだろう」と思っていたんです。市長になる前も、けっこう会社を空けて社会的活動などに精を出していたんですよ。だから私が不在という状況を、社員たちはある程度理解してくれています。もう「とにかく頼むね」みたいな感じで、そんな状況をある程度許してくれる土台がありました。社員たちには、今でもすごく申し訳ないと思っていますし、感謝もしています。

もともと、社員に「とにかく頼むね」と社会活動に勤しんでいた内藤さん【撮影=阿部昌也】


ーー社員さんからかなりの信頼を得られているんですね。
【内藤久夫】最初のうちは、どっちも中途半端になるのがすごく怖かったです。ルーティンとして、毎朝7時半前ぐらいに出社して、幹部ミーティングを行ってから市役所に登庁する。そんな生活をずっとしています。夕方も可能な日は会社に顔を出しています。

【内藤久夫】やってよかった点としては、私は社会的活動や若いころの青年会議所での活動、ロータリークラブ、それから自分で立ち上げた「小林一三に学ぶ会」など、地域活動をずっとやってきました。そういう観点から、「市民の気持ちをわかっている」という理解を得られて、市長になれたということじゃないでしょうか。なかでも、駅前にある『NICORI-ニコリ-』という市民交流センターがオープンしたときの、指定管理会社の社長になったことは経験として大きかったです。そういう、社会に何か貢献するような仕事が好きだったんですね。家業は製造業ですが、まったく関係のない地域活動の世界に入ってみたら、それがけっこうおもしろく、あくまで個人的な感触ですが、非常にうまくいったんです。そういう部分を見てくださっていたので、地元の方々も「やれるじゃん!」と思ってくれたんですかね(笑)。

ーー振り返ると、ご自身の活動が、周囲の期待値をどんどん上げていたわけですね。
【内藤久夫】結果的にそうなっちゃったんですかね。でも、製造業のおもしろさもわかっていましたが、市民と一緒にやっていくおもしろさは、ニコリを運営することで知ることができたんです。それまでの儲ける楽しさよりも、例えば市民に感謝してもらえるという喜びは、今まで感じたことがありませんでした。これが、市政のやりがいにもつながっていると思います。

【内藤久夫】以前は「売り上げがこれだけ伸びました」とか「生産高がこれだけ増えました」という世界だけでずっとやってきましたが、市長になると、与えられたお金で「とにかくやってねと。その代わり、市民に対して何か成果を残して」っていう世界ですから。損をせず儲けを出すことも大事ですが、どれだけ市民や利用者に喜んでもらえるかが主軸になる、すごく独特な世界なんです。

ーー「ありがとう」をつくり出していく仕事ですね。
【内藤久夫】そのとおりです。「ありがとう」がないとダメなんです。そんな「ありがとう」が、市民交流センターニコリで得た経験のなかにありました。ニコリの学習室は、今でも韮崎高校の生徒さんたちが、勉強のために放課後によく利用しています。施設には、学習室を借りるための申込用紙が置いてあるのですが、数年前の3月のある日、その用紙にいっぱい寄せ書きが書き残されていたんです。それは卒業していく3年生の生徒さんたちが残したメッセージでした。「ニコリを使わせてもらって大学に受かりました」とか「長い間ありがとう」と書いてあったんですよ。それを見て感動しましてね。「この小さな紙切れがうちの宝物だから、ちゃんと残してくれ」とスタッフに伝えて、今も大切に保存しています。

【内藤久夫】さらに、同じ年にもうひとつ似た出来事がありました。事務室にひとりの高校生がやってきて、静岡で買ったお茶菓子を持ってきてくれたんです。「高校生がどうしてお茶菓子を持ってきたんだろう?」と思ったら、「実は私、ニコリでずっと勉強させてもらって静岡大学に受かりました」と言うんです。「これも本当にニコリで勉強させてもらったおかげです。みなさんありがとうございました」って。きっとお小遣いを使ってまで、わざわざ買ってきてくれたんでしょう。すごく感動しました。「たまらんな、この仕事は」と、商売の世界とは全然違う種類の良さを感じたんですよね。

社長でも市長でも、手がけたことに対して感謝されることが一番の喜び【撮影=阿部昌也】


【内藤久夫】そういう喜びを経験したので、市役所の仕事ってこの延長線上にあるんだろうなとは思っていたんです。公務員になってよくわかったことは、やっぱり感謝されることが一番うれしい。もちろん「ふるさと納税がこれだけありました」とか、そういう数字的な面もありますが、やっぱり「こんな道路をつくってくれてありがとう」とか「この制度をつくってくれてありがとう」って言われるのが一番の励みです。もちろん厳しい面もたくさんありますが、こういう部分は、この世界の独特なおもしろさですね。

ーー難しいお仕事ですよね。
【内藤久夫】はい、難しいです。同じことをしてもAさんにとってはすごくいいけど、Bさんにとってはダメって場合もありますから。そこの難しさはありますけども、でも、やっぱりやりがいはあると思います。通常、行政サービスは“当たり前”って思う人が多いと思います。実は、私もそう思っていたこともありました。でも、「みなさんの税金をどういうところへ注ぎ込んで、どうしたら費用対効果が上がるだろうか」と、みんなで必死に考えているんです。この大変さは、経験してみないと知り得ませんでしたね。私の強みは、民の苦労も知っているし、公の苦労も知っていること。それぞれの違いがよくわかるんですよ。二足のわらじを履くことで、うちの社員の気持ちもわかるし、市役所の職員の気持ちもわかるんです。「いいよね公務員は。給料も下がらんで、安定して働けて」と思う人もいるし、「楽してるよね」と言う人もいますが、役所のなかに入ってみると、うちの職員はよく働いてくれているということが、よくわかりました。みんな本当に真面目にやってくれています。そこは本当にすごいなと思いますし、感謝しています。

費用対効果を考えながら税金を適材適所に使うこと、経験してみて初めてその大変さに気がついたそう【撮影=阿部昌也】


ーー2014年に、「市民目線の活力あるまちづくり」を提唱されましたが、こうした考えにも“二足のわらじ”が生かされている部分がありますか?
【内藤久夫】やっぱりニコリでの4年の経験が大きかったです。市民がどういうところにニーズを感じているのか?とか、どういうふうに考えているのか?という着想を得られました。それまで一工場のオーナーとしてしか活動してこなかった身からすると、それが広く市民のことを考えるきっかけになったと思います。例えば、高校生たちが想像以上にしっかりしているなと思うことも多々ありました。それから、子育て支援センターに来られる多くのお母さん、あるいはお父さん方も含めて、どんな気持ちで来ているんだろう?とか、常に考えるきっかけとなりました。

【内藤久夫】ニコリで働いてくれている人たちは、みなさん、ある意味での使命感を持って活動されているんです。「うちの会社は使命感を持って働いているか?」と振り返ると、どうでしょう?恐らくそこまではないのかもと思います。子育て支援センターで働いている人たちの姿を目の当たりにして、「この献身的な働き方はなんだろう?公務員でもないのに」といたく感心しました。

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