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「風林火山」の旗のもと、戦国最強の武将「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄で知られる甲斐武田家にゆかりの深い韮崎市には、武田家に関する歴史スポットがたくさんある。車で気軽に回れる距離なので、武田家や歴史に興味があるならぜひドライブコースにおすすめしたい。山梨県北西部に位置し、韮崎ICまで中央自動車道で約1時間半と東京からのアクセスもよく、「わに塚のサクラ」や「新府桃源郷」など花の名所としても知られる韮崎市は春のおでかけ先にもぴったりだ。

歴史を知っているとさらにおもしろい!武田家ゆかりのスポットをめぐるドライブコースを紹介
平安時代から戦国時代にかけて甲斐国(かいのくに※現在の山梨県に相当)を中心に勢力を広げた武田家。戦国時代最強とも言われた武田軍を作った“甲斐の虎”・武田信玄の名は有名だが、開祖は武田信義(のぶよし)だ。甲斐源氏の一族・竜光丸(りゅうこうまる)が韮崎市の「武田八幡宮」で元服し、武田信義を名乗ったことにより甲斐武田家が発祥したと言われている。そんな“武田家発祥の地”の韮崎市には、“武田家終焉の地”として知られる「新府城」もある。ほかにも武田信義の菩提寺や、武田勝頼が逃げ延びる際に炎に包まれる城を振り返ったと伝わる「涙の森」といった武田家ゆかりのスポットをめぐるドライブコースを紹介したい。
ただスポットをめぐるより、そこがどんな土地なのか、武田家の時代に何があったのかを知っているほうが、よりいっそう楽しめるはず。ということで今回は、韮崎市の文化財に精通する韮崎市教育委員会の閏間(うるま)俊明さんに案内してもらいながら、武田家ゆかりのスポットをめぐるドライブへ行ってきた!

武田家が氏神として仰ぎ、深く信仰した甲斐武田発祥の社「武田八幡宮」
「武田八幡宮」は、甲斐武田家の氏神として尊崇を集めた神社。1140年に源清光の子・信義(幼名:竜光丸)がこの地で元服して、「源信義」から「武田信義」と名を変えたことにより甲斐武田家が発祥したとされている。

武田八幡宮の創建はなんと千年以上も昔、平安期の822年。武田氏ゆかりの場所として有名な「武田神社」(山梨県甲府市)が2019年に100周年を迎えたことと比較しても、武田八幡宮がいかに由緒と歴史ある神社だということがわかる。
こちらの神社には鳥居が3つあり、参道の途中に立つ「二ノ鳥居」は1701年に建てられたもの、神社の総門前に構えられた「三ノ鳥居」とその下の石垣は室町時代に造られたものとされ、山梨県指定文化財になっている。

「この石鳥居、ちょっと違和感ないですか?」と閏間さん。よく見ると、鳥居の正面に石垣があって、人が通るには両脇の階段へ回り込まないといけない。「これは、参道の真ん中が神様の通り道ということを示しています。人は避けて通るのが作法。それがまさに具現化された形がこの石鳥居なんですね」と教えてくれた。


現在の「本殿」は、信義から400年後の1541年に信虎・信玄が再建したもので、当時の建築様式を伝える遺構として国の重要文化財に指定されている。

境内には、信玄を父に持ち、武田家最後の武将・勝頼が織田信長の侵略にあって滅亡間近となった際、勝頼夫人が必死の戦勝祈願として書いた願文(がんもん)の石碑も建てられている。読んでみると、夫の勝利と無事を願い、神仏に祈りを捧げる妻の深い愛がなんとも心を打つ文(ふみ)なのだが、「北条家から14歳という年齢で勝頼のもとに嫁ぎ、この願文を書いたのが19歳…。願い叶わず、この1カ月後には武田家は滅亡してしまうんですが、10代の女性がこんな手紙を書かざるを得ない時代の背景を思うと、“すてきな文”などという言葉では済まされない気がします」と言う閏間さんの言葉に、あらためて当時は人間が生き抜くのが心底大変な時代だったのだとわかる。

さまざまな文化財を所蔵する、武田信義の菩提寺「願成寺」

韮崎市神山町にある曹洞宗の寺院「願成寺(がんじょうじ)」は、甲斐武田家の祖である武田信義の菩提寺で、境内にある「願成寺の五輪塔」は信義の墓所と伝えられている。創建は771年とその歴史は古く、信義が寄進したとされる「木造阿弥陀如来及両脇侍像」は、国の重要文化財に指定されている。



「この『木造阿弥陀如来及両脇侍像』は、平安時代末期〜鎌倉時代初期のものと考えられていて、当時の都・京都からわざわざ仏師を呼び寄せて作らせたと言われています。そんな価値あるものを作らせるだけの権力が武田家にあったことの表れですね」と閏間さん。

中央が阿弥陀如来像、向かって右は観音菩薩像、左は勢至菩薩像で、閏間さんのお話では「両脇の菩薩像を横に回って見てもらうと、少し前に傾いているのがわかるはずです。参拝者に何かを差し伸べているような、寄り添っているような、そんな雰囲気がある」とのこと。訪れたら、ぜひ正面から参るだけでなく横から見ることも忘れずに。
“続日本100名城”にも選出。武田家終焉の地とされる山城「新府城跡」

武田家ゆかりのスポットとして忘れてはいけないのが、武田家最後の城「新府城(しんぷじょう)」。その跡地が韮崎市中田町にある。八ヶ岳の山体崩壊にともなう岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に、1581年、武田勝頼によって築城された。廃城後に勧進された新府藤武神社の参道の階段を上がると、本丸跡に到着する。

「七里岩台地は先端が尖っていて見晴らしがずば抜けてよく、その左右は断崖絶壁。なかなかの要害地形で、まさに“天空の城”になりえるこの地は城を建てるには最適だったのではないでしょうか」と閏間さん。


また、富士山に向かって甲府が一望でき、諏訪方面・佐久方面・秩父方面にも道がつながっていることから、「道を通じて人・物・情報が入ってくるし発信もしやすい。そういう意味でもとてもいい場所を勝頼は選んでいます。“新府”とは『新しい府中』という意味で、新たな当主となった勝頼が織田・徳川家から攻め込まれることを考慮し、信玄時代に甲府にあった本拠から、防御に適した新たな地で新しい中心地をつくろうとしたことがうかがえますよね」と教えてくれた。

新府城は、1582年に織田・徳川軍に攻められ、入城からわずか68日という短さで勝頼自ら火を放つこととなった悲運の城と言われている。閏間さん曰く「ひと昔前までは『武田家が滅んだのは勝頼が無能だったから』などと言われていた時代もありますが、実は織田信長と上杉謙信が若くて有能な勝頼を警戒し、『油断できない人物だから早めにつぶしておいたほうがよい』という内容の文をやり取りしていたということも明らかになっている」とのこと。武田家が織田・徳川家に『長篠(ながしの)の戦い』で大敗北したにも関わらずその後も領国を拡大していることからも「勝頼はかなり手腕の優れた優秀な武将だったのでしょう」と閏間さんは分析。
近年の発掘調査では、 山頂の本丸を中心に二の丸・三の丸の大きな郭が配され、「丸馬出(まるうまだし)」や「三日月堀(みかづきぼり)」、「出構(でかまえ)」など、敵から城を守る武田家の防御技術が随所に施されていたことがわかっていて、戦国武田家の集大成を今に伝える良好な城跡と言えるだろう。



新府城から逃げる武田勝頼一行が涙を流した場所「涙の森」
1582年3月3日、織田・徳川家の大軍に攻め込まれた勝頼は、自ら新府城に火を放ったのち、家臣・小山田信茂が待つ岩殿城(山梨県大月市)を目指して逃亡を開始する。1万を超えるほどいた兵士の数はすでに1000を下回り、離反者が続出。岩殿城までの道中、韮崎の更科村(現在の韮崎市上ノ山あたり)まで来たとき、新府城が炎に包まれる姿を振り返り、夫人とともに涙にくれたと言われている。その場所が「涙(なみだ)の森」だ。

「この場所にはかつてお寺があったとされていて、そこでひと休みしたことから、もとは『阿弥陀の森』と呼ばれていましたが、時とともに『涙の森』という名前が定着したようです」(閏間さん)

赤々と燃え上がる新府城の姿を見て、勝頼夫人が涙しながら詠んだ一首「うつつには おもほえがたきこのところ あだにさめぬる 春の夜の夢」の石碑もある。勝頼36歳、夫人19歳でこの世を去った若き二人の姿に思いをはせながら新府城の方を振り返ると、雄大な韮崎の自然も、また違った趣を感じるに違いない。


今回紹介した“武田家ゆかりの地”やその周辺には、桜や桃の花など、春の花が鑑賞できるスポットもさまざまあるので、この時期ならではの色とりどりの景色と共に、韮崎市の“歴史・文化”を感じながら名所を巡ってみては?
日本山岳ガイド協会の登山ガイドと一緒に韮崎市を歩こう!
普段は登山案内を行なっている韮崎市在住のガイドが「韮崎のとっておきスポット」を案内してくれる日帰りツアー。体力や希望に合わせてオーダーメイドでツアーコースを決めるプライベートプランなので、気になるスポットがあればぜひ相談してみよう。
「韮崎市民俗資料館」でさらに歴史を深掘り!
「韮崎市民俗資料館」では、縄文時代から近代に至るまでのさまざまな郷土の資料や遺跡から発掘された出土品を展示している。さらに韮崎市や武田家の歴史に興味がわいたら、ぜひ訪れてみてほしい。

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取材・文=水島彩恵
撮影=吉澤咲子