「トイレの音を聞かれたくない」という乙女心を優しい音でカバーしてくれる「音姫」。今やトイレの必需品となったこの製品は、もともとは女性向けに排泄音のプライバシー保護と節水を目的に開発されたものだったそうだ。しかし近年では男性トイレへの需要も急速に高まっており、男性のおよそ2人に1人が音姫を使っているのだという。
普段は駅やデパートのトイレで当たり前のように使用している音姫だが、一体どのように世間に浸透していったのだろうか。音姫がどう利用されているかを知るべく、TOTO株式会社(以下、TOTO) プレゼンテーション企画グループの岩井順子さんに、音姫を開発した背景や女性だけでなく男性トイレへの需要が増えている理由を聞いた。
福岡県での大渇水がきっかけで誕生した「音姫」
音姫が発売されたのは1988年。この製品が生まれる10年ほど前の1978年にTOTOの本社がある北九州市と同じ福岡県の福岡市で起こったのが、大規模な給水制限を伴う大渇水だ。それ以降、福岡市では市民の節水意識が高まり、それに応えるべくTOTOが注目したのが“トイレの流水”だった。
「女性が排泄中の音を恥ずかしく感じ、音消しのために平均2〜3回ほど水を流しているという状況がありました。なかにはトイレに入ってからずっと水を流しっぱなしの人もいたほどです。ですが、当時のトイレは一度の流水に13リットルもの水が流れていたため、1回のトイレ利用で20リットルほどが無駄になっていたんです。そこで、女性向けに排泄音のプライバシー保護と節水をするために開発に踏み切ったのが、流水音を流す擬音装置でした」
開発中は流れる音を決めるのに四苦八苦し、雨音などさまざまな候補が挙がったが、最終的に消音効果を鑑みて「フラッシュバルブ音」を採用。しかし、トイレの洗浄機能の進化により洗浄音も静音化され、従来の音では「機械的で不自然ではないか」との意見があがり、リニューアルをすることに。発売から23年後に「川のせせらぎ音」に変更することになったという。これは開発担当者が九州の山奥まで足を運び、実際にせせらぎの音を録音したものなんだとか。音が決定した後も社内外の女性にヒアリングをして、音の大きさや長さなどを調整し、自然音が25秒流れる現在の音姫が完成した。
音姫が開発された頃に主流だったトイレは、今ではあまり見られなくなった和式便器。洋式便器に比べて音が周囲に響きやすく、排出した尿や便が跳ねて靴や床についてしまうという、衛生的にあまりよくないものだった。さらに、菌が靴底についたまま歩いて拡散してしまうという問題もあったという。これを受けてTOTOは全国の商業施設を中心にトイレの洋式化を目指すことになり、それと同時に音姫の普及を積極的に行った。その影響で現在は、公共の女性トイレのほとんどに音姫が設置されている。
ちなみに、排泄の音を「恥ずかしい」と思う気持ちは日本人特有のものだそうで、海外では「恥ずかしい」と思うこと自体が不思議なことなんだとか。そのため音姫の海外展開などは一切なく、日本を訪れた外国人が音姫に興味深々だったり、驚きのあまり録音してYouTubeに投稿することもある。
男性の約半数が「利用する」!音姫が使われる理由とは?
「トイレで何をしているか悟られたくない」という感覚は、個室トイレが当たり前である女性なら誰もが抱くことだろう。TOTOの調査では77%の女性が「音姫を利用する」と回答していて、もはや女性用トイレになくてはならない存在だ。
「用を足す音だけでなく、トイレットペーパーを取る音や生理用品の包みを破る音、ストッキングを替える際の衣擦れなどを気にする方が多く、『今、トイレで何をしているか分からないようにしてほしい』という要望がたくさんありました。そのような女性のプライバシーを守るためにも、音姫が役立っています」
トイレでの「恥ずかしい」という感覚は女性だけでなく男性にもあり、TOTOの調査では男性の48%が「音姫を利用する」と回答するなど、徐々に男性からの需要も高まっているそう。特に男性はお腹を壊しやすい人が多く、「排泄中の音を消したい」という要望が多いという。音姫は男性のデリケートな気持ちを守るためにも一役買っている。
「発売当初は女性トイレにしか設置していなかったのですが、2010年ごろから男性トイレへの設置を進めています。もともとは女性向けの商品だったため『音』と『乙姫』をかけたかわいい印象の『音姫』という名前にしましたが、男性トイレにも設置しているので改名が必要かもしれませんね(笑)」
また、近年では小便器に仕切りをつけたり、男性の半数以上がトイレで身だしなみをチェックするため化粧コーナーを設けたりと、TOTOは男女の設備の差をなくすように取り組んでいるという。「誰もが気持ちよく使いやすいトイレに整えることが、公共施設の価値を高めることに繋がる」と岩井さんは語った。
性別や年齢関係なく誰もが気持ちよく使えるトイレを
最近ではトランスジェンダーをはじめとした性的マイノリティへの配慮としても、音姫は活躍している。例えばFtM(生まれたときに割り当てられた性別は女性、性自認は男性)のなかには男子トイレの個室で生理用品を交換する人もいて、取り替える際の音が聞こえないかを心配する声が挙がっている。また、少用の音も座ってするのと立ってするのでは音が異なるため、音姫を使用するそうだ。
しかし、「自分だけが音姫を使うのは不自然なのでは?」と音を鳴らすのをためらう人も多いのだとか。そこで、個室に入ったと同時に自動で音姫が鳴る設定にすることで、音姫を誰もが違和感なく使用できるようにしているトイレもある。トランスジェンダーだけでなく音姫をまだ使い慣れていない男性にとってもありがたい仕様だ。
「生理があるトランスジェンダーの人向けに男性トイレにチャームボックスを設置しているトイレもあるのですが、高齢の方がおむつを取り替えるのに使われたりと、私たちが予想していなかった用途や需要があったりします。今後は性別や年齢などの垣根を超えたトイレ環境を整えていきたいと考えています」
TOTOの今後の目標は、すべての人が快適に使用できるトイレを目指して「パブリックトイレ」としての価値を高めていくことだ。女性のプライバシーの保護と節水のために生まれた音姫は、今や性別を超えて必要とされる製品となっている。今後のトイレの進化と音姫の活躍に注目したい。
取材・文=越前与