“和食におけるファストフード”とも言える「お茶漬け」。普段、仕事や家事の合間、お酒を飲んだあとのシメなどに何気なく食べているものだが、その歴史は古く、平安時代の文献にも「水飯」「湯漬け」といったお茶漬けのルーツ的なものがしばしば登場する。
ただ、現代の日本人が食べるお茶漬けは海苔やあられなどが入ったもの。これを家庭に広く浸透させたのが、約70年前に永谷園が商品化した「お茶づけ海苔」と言われている。
今回は、お茶漬けのルーツ、そしてロングセラーの「お茶づけ海苔」がどう誕生したかなどを、株式会社永谷園の担当者に聞いた。
鎌倉時代から武家に愛された「湯漬け」がルーツ
冒頭で触れた通り、お茶漬けの起源は平安時代と言われている。この点について、まず担当者に解説してもらった。
「平安時代の文献にしばしば登場する『水飯』や『湯漬け』は、ご飯に水やお湯をかけた手軽な食事のことで、お茶漬けのルーツと言われています。ちなみに、当時の米は甑(こしき)という調理器具で蒸しあげた『強飯』(こわいい)が主流でした。硬くて粘り気のないものだったそうです。『今昔物語集』には、三条中納言という人物が肥満解消のために医師の勧めに従って『冬は湯漬け、夏は水漬け(=水飯)を食べる』という話が残されています。しかし、彼は干し瓜や鮨鮎をおかずに大盛りの水飯を何杯も食べていたようで、結局ダイエットには失敗してしまうのですが、当時“お茶漬け(ならぬ湯漬け)でダイエット”の発想があったことには驚きです。
その後、戦国武将の織田信長と斎藤道三の初対面は、湯漬けを食べながらの一席となりました。このように、鎌倉時代から室町時代にかけて、簡便な湯漬けは武家の間で愛されていたようです。なかでも“湯漬け好き”として知られるのが、室町幕府八代将軍の足利義政。彼が酒に酔ったときにご飯にお湯をかけて食べたことから、湯漬けを食べる習慣はいっそう世間に広まったと言われています。後には『おかずは香の物から食べ始めること』『汁は最初に飲まないこと』など、湯漬けの食べ方にさまざまな約束事が作られるまでになったそうです」
なかなか興味深い話ではあるが、しかしここまではあくまでも「湯漬け」の話。肝心のお茶漬けはいつ頃から普及したのだろうか。
「江戸時代です。室町時代後半に庶民にもお茶が広まって湯漬けにお茶をかける習慣ができ、江戸時代に入ってからは、お茶漬けが庶民の日常生活にも馴染むようになりました。当時の炊飯は1日1回が基本。江戸では朝にご飯を炊き、夜はお茶を沸かして冷やご飯にかけて食べていたそうです。一方、上方では昼にご飯を炊き、翌朝は冷やご飯にお茶をかけて食べる、という食生活が一般的だったようです。
また、江戸の町にはお茶漬けを主として簡単な料理などを出す『茶漬屋』も出現しました。元祖は元禄期(1688~1704年)、江戸金竜山下の『奈良茶屋』と言われています。そして江戸時代後期になると、江戸の各地に名物のお茶漬けが誕生しました。『寛天見聞記』に、『八百善』という料理茶屋で酔狂な客が極上のお茶漬けを注文したところ、半日かけて玉川からお茶に合う水を飛脚に運ばせ、一両二分という代金に客がびっくりした、という話が残っています」
このように、お茶の普及から庶民の手軽な料理として定番化したのがお茶漬けだったというわけだが、その一方で、水や具の取り合わせにこだわるなど、本格料理として親しまれることもあったそうだ。
製茶業ならではの革命的商品「お茶づけ海苔」
そして、永谷園の起源もまた江戸時代に遡る。江戸時代中期に製茶業を営んでいた永谷宗七郎(後に入道して永谷宗円)は、現在の煎茶の製法を発明し、日本茶の歴史に大きな功績を残した人物として知られている。この永谷宗七郎から十代目にあたる永谷嘉男は、お茶の量り売りなどを行う「茶舗永谷園」という店を営んでいた。
太平洋戦争時、一時閉店を余儀なくされたものの戦後に復興。事業を行いながら、1952年に永谷嘉男が考案したのが、「お茶づけ海苔」だった。
「永谷嘉男は、『小料理屋のシメで食べるお茶漬けが家でも簡単に食べられたらいいのに』という発想で『お茶づけ海苔』を開発しました。その当時、小料理屋などは女性や子供が行ける場所ではなく、こうしたおいしいものを誰でも気軽に食べることができればいい、と考えていたようです。また、製茶業を営んでいたことで『お茶づけ海苔』の原料である抹茶、砂糖や塩といった調味料、刻み海苔、あられはすべて手元にあり、それを組み合わせました」
開発当初の「お茶づけ海苔」は、全て手作業で製造。包装資材のアルミ箔もポリエチレンもない時代だったため、海苔が湿気らないよう袋を二重にして、底に石灰を敷いた瓶に100袋ずつ詰めて発売したという。
「ネーミングは、『シンプルな名前がいい』と『お茶づけ海苔』に決定。『づけ』は漢字にしないとか『海苔』は漢字にするとか、細部までこだわって名付けました。パッケージデザインは、お茶漬けから連想した“江戸の情緒”をイメージし、歌舞伎の『定式幕』になぞらえて黄・赤・黒・緑の縞模様を採用しました」
前例のない商品だったこともあり、「お茶づけ海苔」はいきなり大ヒットしたわけではなく、発売当初は自転車の後ろにリアカーを引き、お茶屋に1軒1軒納品していたという。すると、カラフルなパッケージが店頭で多くの人の目を引くこととなり、予想を上回るヒットに至った。
「お茶屋でのヒットに続き、次に問屋を通じてデパートに納入を始めました。今までにない商品なので、店頭で実演販売を行い、商品認知に努めました。その甲斐もあり、売上は好調。ところがある日、デパートからの注文が急に途絶えてしまいます。理由を調査すると、『お茶づけ海苔』の類似品が出回っていたことがわかりました。当時のパッケージには『江戸風味 お茶づけ海苔』と印刷されているだけで商標を登録しておらず、類似品が出回っても何もできませんでした。この事件を機に、ブランドの重要性を認識し、パッケージに『永谷園』と印刷するとともに永谷園ブランドの確立に努めました。
現在まで約70年続くロングセラーとなっているのは、“お茶漬けの素”自体が今までにない商品だったことに加え、何度食べても飽きがこない味を目指し、おそらく他社が同様の商品を作ろうとしてもできない、弊社ならではの原料の黄金比率がウケているからだと思っています。黄金比率についてはもちろん社外秘です(笑)」
また、「お茶づけ海苔」は発売以来、時代に合わせてマイナーチェンジを行っているものの、基本的な味の構成、原料の比率は70年前の開発当初のままだという。
70年経った今、忙しい社会人や子育て世代の味方に
「水飯」や「湯漬け」から始まり、お茶漬けもさまざまな変遷を経てきたが、それを一般家庭に根付かせたのは、やはり永谷園の「お茶づけ海苔」の影響が強いと言っていいだろう。この点については、永谷園も強い自負を持っているという。
「日本の食文化に根付いたお茶漬けを、ふりかけ形式にして手軽に即席で食べられるようにしたことが、広く家庭に根付いた要因だと考えています。また、発売当時の食生活は“量から質”への移行期だったこともあり、“おいしいもの”が受け入れられる土壌がありました。それに呼応するように、永谷嘉男が徹底して開発したことが、多くのご支持をいただけた理由だと思います」
さらに、その功績に驕ることなく、2012年には5月17日を「お茶漬けの日」に制定。お茶漬け文化を広め続けている。「お茶づけ海苔」誕生から70年を超えた今、さらなる未来にかける思いを聞いた。
「『お茶づけ海苔』は、今日までファストフードとして親しまれてきました。今後は、さらにお客様の生活シーンに寄り添うような開発と普及をしていきたいです。現在の『お茶づけ海苔』は忙しい朝の食事として、特に子育て世代を中心に愛されています。朝起きて食欲がなくても、時間がなくても、お茶漬けであればサラサラと簡単に食べることができます。朝食はもちろんですが、これからもさまざまなシーンでお茶漬けを食べていただきたいですね」
ただご飯にお茶をかけるだけだったものが、永谷園の努力により、今では日々の暮らしの必需品となるまでになった。そこに至るまでには長い歴史と、多くの人の思いが詰まっている。つい時間がないときにサクッと食べてしまうお茶漬けだが、たまにはゆっくりと、ひと袋に込められたこだわりを味わってみてはいかがだろうか。
取材・文=松田義人(deco)