なぜここまで将棋だらけ?きっかけは191年前
将棋のルーツは古代インドに存在した「チャトランガ」というボードゲームだが、これが世界中に派生し、中国・朝鮮を通じて日本にも伝来したと言われている。詳細は不明だが1058〜1065年頃と言われており、山形県を含む日本各地に伝わった。
ここ天童市が将棋に深く関わるようになるのは、その約800年後の1831年(天保2年)のこと。将棋駒づくりを行っていた織田藩が高畠から天童へ移管するにともない、将棋駒の製作技術が一緒に導入されたのが始まりだと推定されている。織田藩の将棋駒づくりがいつから始まったかは不明だが、少なくとも移管前(1767〜1831年)には行われていたようだ。これを継承するように幕末の重臣・吉田大八によって米沢から指導者を招くなどし、積極的に奨励され、今日の天童将棋の基礎が築かれたと言われている。
このことが天童将棋駒の振興のきっかけとなり、今日では国産駒の9割がここ天童市で生産されるほど、日本屈指の将棋の駒の街になった。
4724名が一同に対局を行い世界記録を樹立!
天童将棋は「書き駒」「盛り上げ駒」「彫り駒」「彫り埋め駒」といった駒の種類に対し、昔から多くの種類の木材が用いられ、また書体の種類も多く存在する。これら将棋の駒を製作する名人が天童市内に複数おり、将棋ファンの間では神格化されているようだ。
天童市ではもっと将棋の魅力を伝えようと、前述の「人間将棋」以外にもさまざまな催しを行っている。「将棋×サッカーコラボイベント」「将棋フェスティバル」「漫画『3月のライオン』とのコラボ」「将棋教室」など、老若男女問わず誰でも参加したくなるものばかりだ。
また、2018年には「二千局盤来2018」というイベントで同時対局数の世界記録に挑戦し、天童市を舞台に2362局が世界記録を樹立。2362局なので、4724名が認定されたことになるが、実際の参加者数は4760人。非常に多くの人々が一同に対局を行ったということになる。
先人たちが継承し続けた将棋の駒作りはもちろん、「人間将棋」を実施したり4724名もの人が一同に対局を行うなど、人力のすごさと将棋愛をまざまざと見せつけてくれる天童市。特別な将棋ファンならずとも、なんらかの感動と喜びを得られる街だと感じた。
冒頭で触れた「湯のまち天童 あなたの旅に、王手」という看板の通り、確かに天童市の魅力から逃がれられなくなった。山形市内からアクセスもしやすく温泉も豊富な街なので、東北を巡る際にはぜひ多くの人に立ち寄ってほしい街だ。
取材・文=松田義人(deco)
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